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4月25日(金)に行われた例会の報告をします。
【活動場所】 図書館第三グループ閲覧室
【参加人数】 10人(内新入生3人)
【活動内容】 志賀直哉『焚火』合評
まず活動日誌更新が遅れたことをお詫びします。すっかり忘れてました(汗)
内容は志賀直哉『焚火』の合評でした。結果はまぁ予想通りというか何と言うか・・・笑
志賀直哉
この名前を聞いたことの無い日本人はまずいないでしょう。しかし、実際に作品を読んだことのある人が意外に少なく、正直なところ少し驚きました(僕の先入観ですから、悪しからず)。
学習院出のお坊ちゃん、かの有名な内村鑑三の弟子にして、武者小路実篤らと共に雑誌『白樺』を創刊し、芸術にも造詣が深く(確かロダンを日本に紹介したのは彼らじゃなかったかな)、「文壇の神様(この綽名は彼の小説『小僧の神様』から来たそうな)」と称された志賀直哉。
確かに彼の小説は筋なし・落ちなしが多い。不図手にとって読んでみて面白いかと問われれば返答に窮するところですが、まぁ、読まず嫌いはいけませんからね。これを機に志賀直哉の小説を二・三読んでみてはどうでしょう(導入としての『焚火』は失敗だったと悔やんでおりますが・・・)?
一応幾つかオススメをあげておきます。
『大津順吉』、『正義派』、『小僧の神様』、『清兵衛と瓢箪』、『城ノ崎にて』
さて、今回は二日以上更新が遅れてしまった後ろめたさから内容的に頑張ろうと思います。
例会でも少し話が出ましたが、「もはや古典となりつつある近代文学(日本・海外含めて)は読むべきか」ということについて、僕のささやかな所見を述べますと、「読むべき」です。
何故かと言えば、ジャンルを問わず文学・小説に非常に大切な「普遍性」をそこから学べるからです。
では「普遍性」とは何か?誤謬を恐れず(そして照れくささを厭わず)敢えて言うならそれは「限界」だと思います。人間の、そして物語の「限界」です。
人は「限界」を知らずにその先に、新しい何かに辿り着けるでしょうか?限界の先に新しい何かがある・・・なんてどこかのスポーツドリンクの宣伝文句みたいですが、その通りだと思います。
新しい、誰の模倣でもない、オリジナルな小説を書きたいと思うなら、なおさら古典を読むべきです。
幸いにして昨今は「古典ブーム」だそうで、読みやすい新版も出ています。
そういう僕もまだまだ中途半端(これが一番よろしくない)の勉強不足。
みんなで古典を読んで勉強しましょう!若者よ、古典だ笑!!
以上フランクでポップな文体を目指して止まないタジマがお贈りしました。
乱筆乱文多謝。