毎回の活動を、当日参加した会員が交代で記録。
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【活動日】11月5日(水)
【記録者】市川
【時間】18:00~19:30
【場所】図書館第3グループ閲覧室
【参加した人数】5人
【活動内容】
こんばんは、二度目の日誌になります。市川です。
今日は自作二つの合評をしていただきました。
まず、機関誌用の原稿
「ムンクのオレンジ/トイレットペーパー」の合評内容からまとめたいと思います。
・とりあえず意味わからん。
・朝と夜の人物は同一人物か。
・交互に話を入れ替えていく意味は?
・朝からはじまる、という小説の一種のステレオタイプに対して夜の話を織り交ぜることで、典型をぼかしているのではないか。
・視覚を強調した作品である。
・作者は実は全然何も考えずに書いているのではないか(笑)
・ひとつひとつの描写はうまい。
・やっぱり意味わからん。
・実験していくスタンスはよい。
といった、解釈と言うよりはたくさんの疑問符が投げられた合評になりました。
ぼくもこれらに対してそれなりに答えのようなものを持っていたわけですが、それを読者に伝えられないというのは力量不足というかなんというか。
大切なのは小説は読者の頭の中で発生しているということなんだろうなぁと合評を聞いていて思いました。
作者の頭の中で転がして、口から吐き出しただけじゃ作品としてはまだまだなんだなと。
精進したいです。
次にもうひとつ提出した
「ボレロ」の合評内容に入ります。
・散文詩? とりあえず小説じゃない。
・どういう意図で描かれたのかが全然見えない。
・描写を指摘するのは野暮ではないか?
といった上と同じような疑問符だらけ。
「ムンクのオレンジ/トイレットペーパー」でも言えることですが、何か他の作品をオマージュするうえで読者にそのオマージュの対象の作品がわからないと意味がわからんように書いてしまうのはあまりよろしくないことのようです。
今回の場合、モーリス・ラヴェル編曲の『ボレロ』と、クラシック・バレエの『ボレロ』の両作品から着想を得て執筆に至ったので、やはりこの二つどちらも知らない読者にはそれだけでもう敷居をぐいぐいあげることになってしまいました。
作者的な遊びを離れて、読者にきちんと伝えられるようになりたいと思います。
それではこれからもよろしくお願いします。
【記録者】市川
【時間】18:00~19:30
【場所】図書館第3グループ閲覧室
【参加した人数】5人
【活動内容】
こんばんは、二度目の日誌になります。市川です。
今日は自作二つの合評をしていただきました。
まず、機関誌用の原稿
「ムンクのオレンジ/トイレットペーパー」の合評内容からまとめたいと思います。
・とりあえず意味わからん。
・朝と夜の人物は同一人物か。
・交互に話を入れ替えていく意味は?
・朝からはじまる、という小説の一種のステレオタイプに対して夜の話を織り交ぜることで、典型をぼかしているのではないか。
・視覚を強調した作品である。
・作者は実は全然何も考えずに書いているのではないか(笑)
・ひとつひとつの描写はうまい。
・やっぱり意味わからん。
・実験していくスタンスはよい。
といった、解釈と言うよりはたくさんの疑問符が投げられた合評になりました。
ぼくもこれらに対してそれなりに答えのようなものを持っていたわけですが、それを読者に伝えられないというのは力量不足というかなんというか。
大切なのは小説は読者の頭の中で発生しているということなんだろうなぁと合評を聞いていて思いました。
作者の頭の中で転がして、口から吐き出しただけじゃ作品としてはまだまだなんだなと。
精進したいです。
次にもうひとつ提出した
「ボレロ」の合評内容に入ります。
・散文詩? とりあえず小説じゃない。
・どういう意図で描かれたのかが全然見えない。
・描写を指摘するのは野暮ではないか?
といった上と同じような疑問符だらけ。
「ムンクのオレンジ/トイレットペーパー」でも言えることですが、何か他の作品をオマージュするうえで読者にそのオマージュの対象の作品がわからないと意味がわからんように書いてしまうのはあまりよろしくないことのようです。
今回の場合、モーリス・ラヴェル編曲の『ボレロ』と、クラシック・バレエの『ボレロ』の両作品から着想を得て執筆に至ったので、やはりこの二つどちらも知らない読者にはそれだけでもう敷居をぐいぐいあげることになってしまいました。
作者的な遊びを離れて、読者にきちんと伝えられるようになりたいと思います。
それではこれからもよろしくお願いします。
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