毎回の活動を、当日参加した会員が交代で記録。
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「モネは単なる眼にすぎない。 しかし、なんという眼だ」
ボードレール
【日時】5月30日 6時限
【場所】図書館第3グループ閲覧室
【参加人数】6人
【内容】映像の文章化
今回も前回に引き続き、映像を見てそれを文章に起こす作業をしました。いやしかし、皆さんの独創的な発想には驚かされましたね。今回新しく書いてくれたのは高瀬さん・吉田さんの二人だけでしたが、その二人の作品を以下に紹介します。
[高瀬さん]
・ 情景描写という視覚に訴える文章にもかかわらず、眼を塞ぎ、聴覚を頼りに情景を読者にイメージさせるという発想が面白い。
・ 語り手がリアルに設定されており、作品の世界に読者が没入しやすい。
[吉田さん]
・ 途中に韻文的な文句が挿入されるなど、リズムを意識した非常に読みやすい文章。
・ 反戦や戦争に対する無自覚を非難するメッセージが籠められている。
二人の作品はまた水曜日に持っていくので、まだ読んでいない人は是非読んで、感想等を伝えてあげてください。 さて、2回に渡って行ったこの<映像の文章化>。いかがでしたか?一応企画者として簡単に総括してみたいと思います。
そもそも企画側の意図としては、三人称(またはそれに準ずる形)の視点から状況を説明的に描写してみて、その文章が冗長に、読みにくくならないよう練習する、というものでしたが……皆さん大いに予想を裏切ってくれましたね(笑)。皆さんのほとんど語り手を設定し、その人物の心象を通して情景を表現したのは驚きでした。中には人間以外の語り手を設定した人もいましたっけ(笑)。これは何故だろうと例会でもいろいろ議論が交わされましたが、やはり三人称の書きづらさと、情景描写の意味合いに原因があるのじゃないかと思います。三人称の特性として、客観性というのが挙げられます。しかし、作家という一個人が書いている以上、そこに純粋な客観性を盛り込むのは非常に困難な作業です。ここでようやく冒頭のエピグラフに話がつながるのですが、これはフランス印象派を代表する画家モネを評したボードレールの言葉です(なにぶん浅学な僕のぺダントリーなので話半分に聞いてください)。この言葉の意味するところは、それまで絵というものは画家の見たものを画家の感覚・感性(ある場合には主義・主張)を通して表現されたものでしたが、モネ以降の印象派の画家達は見たものを見たままに、誇張や省略をせず、まさしく一個の眼としての機能を果たしていた、ということです。これは媒体が絵画であろうと文章であろうと共通する客観性の極地ではないでしょうか。モネが成し遂げたことを文章でするには根底を覆すようなパラダイム転換が求められますが、もし成し遂げた暁には、きっとノーベル文学賞がもらえますよ(笑)。
さてこれとは逆に、そもそも客観的な情景描写なんて現代には必要ないのではないか、という意見も出ました。客観性とはある意味普遍性・共通性とも類する言葉だと思いますが、それぞれ個別の世界を持ち、それが賛美される昨今、人々の共通の認識としての客観性は意味を失い始めているのではないでしょうか。ケータイ小説に情景描写がないのもこの辺の理由(もちろん筆力の問題は大いにありますが)からじゃないかと思います。だからといって情景描写を書かなくていいかといえばそうではありませんが、社会のニーズを敏感に読み取ることは書き手として非常に重要なことです。
まぁなんやかやでいろいろな意見・発想が出て大変面白い企画(幾分怪我の功名的な嫌いはありますが笑)となりました。また第二第三の企画も考えて行きたいので、皆さん意見があればどしどし仰ってくださいね。何だか滔々とあることないこと喋ったような気がしますがこの辺で。担当は多路間でした。
追記
この文章を書き始めたのは先週の金曜深夜からでしたが、諸事情により本日ようやく更新できました。大幅に更新が遅れたことをお詫びします。
ボードレール
【日時】5月30日 6時限
【場所】図書館第3グループ閲覧室
【参加人数】6人
【内容】映像の文章化
今回も前回に引き続き、映像を見てそれを文章に起こす作業をしました。いやしかし、皆さんの独創的な発想には驚かされましたね。今回新しく書いてくれたのは高瀬さん・吉田さんの二人だけでしたが、その二人の作品を以下に紹介します。
[高瀬さん]
・ 情景描写という視覚に訴える文章にもかかわらず、眼を塞ぎ、聴覚を頼りに情景を読者にイメージさせるという発想が面白い。
・ 語り手がリアルに設定されており、作品の世界に読者が没入しやすい。
[吉田さん]
・ 途中に韻文的な文句が挿入されるなど、リズムを意識した非常に読みやすい文章。
・ 反戦や戦争に対する無自覚を非難するメッセージが籠められている。
二人の作品はまた水曜日に持っていくので、まだ読んでいない人は是非読んで、感想等を伝えてあげてください。 さて、2回に渡って行ったこの<映像の文章化>。いかがでしたか?一応企画者として簡単に総括してみたいと思います。
そもそも企画側の意図としては、三人称(またはそれに準ずる形)の視点から状況を説明的に描写してみて、その文章が冗長に、読みにくくならないよう練習する、というものでしたが……皆さん大いに予想を裏切ってくれましたね(笑)。皆さんのほとんど語り手を設定し、その人物の心象を通して情景を表現したのは驚きでした。中には人間以外の語り手を設定した人もいましたっけ(笑)。これは何故だろうと例会でもいろいろ議論が交わされましたが、やはり三人称の書きづらさと、情景描写の意味合いに原因があるのじゃないかと思います。三人称の特性として、客観性というのが挙げられます。しかし、作家という一個人が書いている以上、そこに純粋な客観性を盛り込むのは非常に困難な作業です。ここでようやく冒頭のエピグラフに話がつながるのですが、これはフランス印象派を代表する画家モネを評したボードレールの言葉です(なにぶん浅学な僕のぺダントリーなので話半分に聞いてください)。この言葉の意味するところは、それまで絵というものは画家の見たものを画家の感覚・感性(ある場合には主義・主張)を通して表現されたものでしたが、モネ以降の印象派の画家達は見たものを見たままに、誇張や省略をせず、まさしく一個の眼としての機能を果たしていた、ということです。これは媒体が絵画であろうと文章であろうと共通する客観性の極地ではないでしょうか。モネが成し遂げたことを文章でするには根底を覆すようなパラダイム転換が求められますが、もし成し遂げた暁には、きっとノーベル文学賞がもらえますよ(笑)。
さてこれとは逆に、そもそも客観的な情景描写なんて現代には必要ないのではないか、という意見も出ました。客観性とはある意味普遍性・共通性とも類する言葉だと思いますが、それぞれ個別の世界を持ち、それが賛美される昨今、人々の共通の認識としての客観性は意味を失い始めているのではないでしょうか。ケータイ小説に情景描写がないのもこの辺の理由(もちろん筆力の問題は大いにありますが)からじゃないかと思います。だからといって情景描写を書かなくていいかといえばそうではありませんが、社会のニーズを敏感に読み取ることは書き手として非常に重要なことです。
まぁなんやかやでいろいろな意見・発想が出て大変面白い企画(幾分怪我の功名的な嫌いはありますが笑)となりました。また第二第三の企画も考えて行きたいので、皆さん意見があればどしどし仰ってくださいね。何だか滔々とあることないこと喋ったような気がしますがこの辺で。担当は多路間でした。
追記
この文章を書き始めたのは先週の金曜深夜からでしたが、諸事情により本日ようやく更新できました。大幅に更新が遅れたことをお詫びします。
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