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【活動日】5月9日(更新が遅くなりました。すみません)
【記録者】ムラマツ
【時間】18時から19時40分
【場所】図書館グループ閲覧室
【参加した人数】7人
【活動内容】
テーマ「階段」にちなんだ小説の合評
高村綾「犬と階段」(2回目)
いくた真一「十三段目」(2回目)
【感想のようなもの】
お元気ですか?
私はムラマツという者です。当サークルの前年度会長をしておりました。
引退してからも大体毎回来ています。サークルが好きなので。
さて。
当日は盛り上がりました。
まず、いくたくんの作品について。
「あらすじ的になってしまっているところがあるからそこをもっと詳細に書いてほしかった」「主人公がなぜこのような行動に至ったかわからなくて唖然とする」「多く書いてから無駄を削っていくといい」「もっと引っ張ってもよいのでは」「一人称だと面白いかも」「階段が13段って短くね?」などなど……
わーわー言うとりますが、こんなもの全て採用する必要はまるでないわけで、いくたくんには軽やかにしなやかに、自分の考えで前へと進んでいただきたいとワタクシ、思っております。
ただ、そのためにはさらなる自由さと見たこともない熱心さで小説に取り組むことが、今後必要不可欠になってくると、個人的には感じています。
甚だつかみどころのない話ではありますが。
次に、高村さんの作品について。
この作品合評を始めるとすぐに、女性会員の側から熱のこもった意見が挙がってまいりました。
曰く、この主人公の性に対する実感は、リアルに女性が抱いている感覚である、とのこと。
(ちなみに本当はもっとかわいらしい口調で言っていました。男性会員募集中)
「女性が抱く性意識、男性が抱く性意識、その乖離を描いた、女性としてとても共感できる作品」
「本当にこういう男はいる」
「読んでいてわかるわかる!と思えるエンターテイメントとして成立」
「ミステリー小説家登場の必然性は?」「主人公の偏った視点」「前向きな方へ向かっていない」「結末部のドタバタはなんですか?」etc....
男女入り乱れての意見交換でございます。
ただ、皆さん共通してらっしゃったのは、表現力・描写力の点では嫉妬を覚えるほどのものを、今回見せ付けられてしまったなあということ。そして、大学生サークルでは気持ちがふっ切れるまでなかなか書きにくい「性」を題材に用いたことは、サークルにとって非常にプラスであるし必要なことだったということ。この二つは、手放しですばらしいと言えるものでした。
ここからは私見ですが。
本当にこの作品で登場する「馬鹿な」男性は実際にもいます。むしろ一般的と言えるくらいにありふれているのかもしれません。女性としてはそういう人と付き合って感じる噛み合わなさを歯痒く思ったりもしていて、けどその歯痒さを男はやっぱり絶望的にわかってくれなくて、同じ女性がこうして小説にして表現したときに「そうだ!」と思って共感するのだと思います。
けど、男性として(という言い回しが適切かどうか判断に苦しみますが)少し思うところもあります。
セックスと愛を混同する。AVの真似事をする。など、こういう男性の「馬鹿な」部分は、オトコノコだったら誰でも一面として内に持っている側面ではあると思います。そして、本作中では徹底的に無視されていますが、大抵の男性はそんな自分を嫌悪します。
しかし「サイテイだーサイテイだー」とどれだけ喚いたところで、30分後にはサイテイな自分が何食わぬ顔で立ち直ってくるのが男性性の馬鹿さの骨頂なわけで、やっぱり自分でも阿呆だなーと思うことをまた女性にしてしまったりするのです。(一般的な話です!)
先述したとおり、この小説の男は自分の馬鹿さに悩むそぶりなんて一つも見せませんでした。これを読んだ女性は、「オトコってみんなそう!」って思ってしまうかもしれませんね。男性が少し文句を言いたくなるのも、わかるような……? どうでしょう。
でもこの小説が女性へ向けた、女性のための、なんというか、「あーあ、なんで世界ってこうなんだろ、いやんなっちゃうよね!」の小説なら、そこに男性の葛藤なんて邪魔なだけですからいらないと思います。エンターテイメントだったら楽しんだもん勝ちなのですから「批判は受け付けません、以上!」で終了、お粗末サマ。てな具合。
個人的には、「サークルに一石投じた衝撃作!」という見出しくらいはつけたい、いい作品だったと思っています。よい合評会になりましたしね。
ムラマツでした。さようなら。
【記録者】ちとー
【時間】18時から19時40分
【場所】図書館グループ閲覧室
【参加した人数】4人
【活動内容】
テーマ「階段」にちなんだ小説の合評
高村綾「犬と階段」
いくた真一「十三段目」
※テーマ小説とは……
会内で事前に決めたお題に関する小説を書く、という取り組み。
与えられたお題に対するをどう捉えるかによって、まったく違う作品ができてしまうので面白い。
【感想】
まず、出た意見から。メモしなかったのでだいたいで。
いくた
→話の膨らませ方次第で化けるかも(腕の見せ所ですね)
→人物やその心理が「普通」であることを書いているが、不明な部分や矛盾する部分が多い。
→文章や会話文にもっとひねり(遊び)があっていいかも。
高村
→文章が映像として分かる。良好。
→切実な話なのか笑い話なのか、判断に迷う。
→すみません、失念しました。なんか人称の話とかしたような気がする。
印象に残った話
僕は(というか誰もが思ったんだろうけど)いくた君の小説はずいぶん中途半端だと思った。
締切との戦いのせいかなぁ、なんて思って聞いてみたら、
「最初は思いついたプロットに沿って書いていたのだが、それがあまりしっくりこなかったので別な案を考えているうちに、やる気がなくなってしまった」
とのこと。
なるほどね。私にも身の覚えがあるぞ。
……でもこれってたぶん、どんなに良いプロットを建てたところで起こるんじゃないだろうか。
大事なのは、そこで我慢して修正し書き続けることなんだと思う。
原稿用紙20~30枚ならまだなんとかなりそうだけど、100枚200枚..............となると、そういった技術は間違いなく必要になってくるでしょう。
意志が試されますね。頑張りましょう。
【記録者】(ヨシダ)
【時間】18時~20時くらい?
【場所】図書館グループ学習室
【参加した人数】5人
【活動内容】
ハリイ・ケメルマン「九マイルは遠すぎる」の合評 etc.
【感想】
今日も今日とて、ちとー氏のありがたーいミステリのお話を聴く。しかし、一回生がどなたもいらっしゃらなかったので、やる気が、炎天下で筋トレさせられる吹奏楽部並みでした。仕方が無いので私がインタビュアーになって、なぜちとー氏がミステリという魔物にとりつかれていらっしゃるのかを根掘り葉掘り聴いておきました。
うーん、自分の好きなものについて語るほど難しいことはない。と思います。なんか、なぜ好きか、ということを、すらすら、論理的に説明できるようになってしまったら、どんどん自分の懐から、わけがわからないけどすごく大切な、物狂おしい感覚が、逃げて行ってしまうような気がします。そういう感覚って、説明できないからこそ、自分から離れていかないわけで、だからこそ、手放しちゃいけないものなんじゃないかなーと思います。
・・・電波ですみません。これがデフォルトです。
ノックスの十戒のうちのひとつがとても興味深かったですね。いつまでたっても、東洋人はエキゾチックで神秘的なんでしょうねー。それはそれで面白いけど、早く誤解が解けるといいなー。
聖火リレーの話は・・・ここで書くと色々差しさわりがありそうなので、自粛します。
P.S. M松さん、カリオストロ鑑賞会の場をご提供くださってありがとうございましたw
【記録者】ちとー
【時間】18時から2時間ほど
【場所】図書館グループ学習室
【参加した人数】6人
【活動内容】
ハリイ・ケメルマン「九マイルは遠すぎる」の合評
【感想】
今週は、私が希望してミステリを取り上げることになった。
何の作品を読んできてもらおうかと迷ったのち、かなり極端な「推理」小説を挙げてみた。
普段ミステリに触れない会員とってそれは、なかなか新鮮なものだったと思う。
エンターテイメント文芸の中で、ミステリは大きな割合を占めている。
ブームが落ち着いたと言われる現在においても毎月数多くの新作が発表されるし、推理小説の専門の文学賞も勢いがある。
その理由は、「ミステリ」というルールが読者と作家を同じ場所に立たせるからだろう。
例えば今日合評した作品において、読者は探偵がするのと同じように推論を働かせることができる。(探偵のように事件の真相を暴けるかといえば、それは難しいのだが)
作家は読者に対して問題を提示し、読者は作家に挑戦する。
その相互作用によって作品が面白くなる。
これは、他のジャンルの作品では容易に得られない効果だ。
また、歴史の中での積み重ねを特に活かせるのがこのジャンルの強みだ。
数々の「お約束」は、読者をひきつけて離さない。
作り手も、研究することによって多くのものを得ることができる。特にトリックや探偵像において。
私もたくさんの作品に触れ、自らの作品に活かしたいと思う(くれぐれも縮小再生産・劣化コピーにならぬよう!)
……金曜も同じ内容をやる予定です。
1回生の皆さんがどんな感想を持ってきてくれるかが楽しみだ。
4月25日(金)に行われた例会の報告をします。
【活動場所】 図書館第三グループ閲覧室
【参加人数】 10人(内新入生3人)
【活動内容】 志賀直哉『焚火』合評
まず活動日誌更新が遅れたことをお詫びします。すっかり忘れてました(汗)
内容は志賀直哉『焚火』の合評でした。結果はまぁ予想通りというか何と言うか・・・笑
志賀直哉
この名前を聞いたことの無い日本人はまずいないでしょう。しかし、実際に作品を読んだことのある人が意外に少なく、正直なところ少し驚きました(僕の先入観ですから、悪しからず)。
学習院出のお坊ちゃん、かの有名な内村鑑三の弟子にして、武者小路実篤らと共に雑誌『白樺』を創刊し、芸術にも造詣が深く(確かロダンを日本に紹介したのは彼らじゃなかったかな)、「文壇の神様(この綽名は彼の小説『小僧の神様』から来たそうな)」と称された志賀直哉。
確かに彼の小説は筋なし・落ちなしが多い。不図手にとって読んでみて面白いかと問われれば返答に窮するところですが、まぁ、読まず嫌いはいけませんからね。これを機に志賀直哉の小説を二・三読んでみてはどうでしょう(導入としての『焚火』は失敗だったと悔やんでおりますが・・・)?
一応幾つかオススメをあげておきます。
『大津順吉』、『正義派』、『小僧の神様』、『清兵衛と瓢箪』、『城ノ崎にて』
さて、今回は二日以上更新が遅れてしまった後ろめたさから内容的に頑張ろうと思います。
例会でも少し話が出ましたが、「もはや古典となりつつある近代文学(日本・海外含めて)は読むべきか」ということについて、僕のささやかな所見を述べますと、「読むべき」です。
何故かと言えば、ジャンルを問わず文学・小説に非常に大切な「普遍性」をそこから学べるからです。
では「普遍性」とは何か?誤謬を恐れず(そして照れくささを厭わず)敢えて言うならそれは「限界」だと思います。人間の、そして物語の「限界」です。
人は「限界」を知らずにその先に、新しい何かに辿り着けるでしょうか?限界の先に新しい何かがある・・・なんてどこかのスポーツドリンクの宣伝文句みたいですが、その通りだと思います。
新しい、誰の模倣でもない、オリジナルな小説を書きたいと思うなら、なおさら古典を読むべきです。
幸いにして昨今は「古典ブーム」だそうで、読みやすい新版も出ています。
そういう僕もまだまだ中途半端(これが一番よろしくない)の勉強不足。
みんなで古典を読んで勉強しましょう!若者よ、古典だ笑!!
以上フランクでポップな文体を目指して止まないタジマがお贈りしました。
乱筆乱文多謝。